1.
嵐の夜、人魚が男の子を海へ攫った。
男の子の手からおもちゃが落ちた。
あたしは鳥としてそれを見ていた。
2.
男の子の手から落ちたおもちゃは、イソギンチャクに引っかかっていた。人間の形をなぞったおもちゃ。顔や手足はつるんとして、石でできた目はきらきらと、水面ごしの太陽みたいに光っている。どこも壊れていない。完璧なすがた。人間の作る品物はみんな奇怪でかわいらしい。人の形をしたおもちゃを片手に寝ぐらへ帰ると人魚があたしを待っていた。まっしろに色の抜けた男の子をぎゅうっと抱えている。人魚が言った。
「動かなくなったんです。なおりますか?」
「なおらないよ。陸のものはここじゃだめなんだよ。今にブヨブヨにふくれてくるよ」
「こんなにきれいなのに、ブヨブヨに? 動くようにするだけでいいんですけど、だめですか?」
「動かないのはこれも一緒だけどね。こっちはブヨブヨにならない。こういうのを探しなよ」
人魚におもちゃを見せてあげた。さっきまで、この男の子が大事に抱えていたおもちゃなのに、人魚はまったく気づいていない。おもちゃの頬を口先でつついて「固い、つまらない」と身を引いた。そして男の子の小さな頭に頬を擦りつけ、たなびく水流に羽ばたくような彼の腕を自らの手で巻き取り、ねっとりとした目つきであたしを見た。
「どうにかなおりませんか。あなたに私、硝子壜をゆずってあげましたよね。ほかにもいろいろ遠くの浜から見つけてあげた。これからだってあなたによくしてあげますよ」
確かにうちには、この人魚にもらったものがいくつかある。ペコンペコンとつぶれる透明な薄い容器や、稲妻模様の黒くて硬い大きな輪っか、雲を平らにしたようなものを封じた小壜。こまごました飾りものを見つけるのが上手な人魚だ。
岩棚からトゲトゲの巻き貝を選ぶ。なかには先代から譲り受けた秘薬が入っている。それをひとつぶ、人魚の左耳に詰めてやった。
「この子を陸に戻してから、薬を鼻穴に吹き入れて、ようく体を振ること。胸のまんなかを両手で思いきり押す。何度か押して水を全部吐き出させる。動くようになるよ」
「そうしたら連れてきて大丈夫ですか?」
「聞き分けなよ、大丈夫じゃないよ、海に入れたら動かなくなる。動かしておきたいなら陸に戻しな」
「そうなんですか。とりあえず、動くようにします。薬をくれてありがとう」
3.
砂まみれになりながら人魚は苦労して男の子を縦に横に振り、胸を押して水を吐き出させた。
夜明け、漂流物を集めていた女が横たわる男の子を見つけた。女が光る小さな板を頬に当ててなにかしらを呼びかけると、まもなく耳を塞ぎたくなるような音が近づいてきて、そして急に止んだ。砂浜をふちどる石の丘の向こうだった。クルマだった。広場に大きめの白いクルマが停まっていた。中から人間がばらばらと飛び出てきた。背丈も身の幅も同じようで、色も柄も同じ。なかには荷物を担いだのがいる。彼らは石の丘に登り、女が手を振るのをすばやく見つけて砂浜へと駆け降りる。
人間たちは男の子を囲んで屈み、なにやら慌ただしくやっていて、いつのまにか男の子を大きな板にのせていた。そのあいだに、人間の一人は女に詰め寄って話をしていた。女は貝殻やガラス片を入れていた袋を見せながら、しきりに首を横に振っている。まもなく、同じ格好の人間たちは男の子を板で運び、足並みそろえて石の丘を越えていった。今度は、クルマの近くに置いた別の板に男の子を乗せかえた。この板には足がついていた。人間たちがなにか短い呪文を唱えると、板から足が伸びたのだった。初めて見る仕掛けだ。そして彼らは男の子をクルマの後ろに板ごと入れてやった。あの足の生える板、イワシの群れを捏ねて固めたみたいな、きれいな色。すてきだ。あたしの寝ぐらには大き過ぎる。でも、いつか機会があったら手に入れたい。寝ぐらの外には置けるかもしれない。呪文も覚えて、人魚あたりを板の上に寝かせて、急に板の足を生やさせて持ち上げて驚かす。きっとしばらくは楽しめるだろう。
しばらくすると、クルマはまたうるさい音を鳴らし始め、てっぺんに赤い光を灯して走って行った。
波の荒い砂浜に残った女は頬に当てた板に、興奮した様子でしきりに話しかけていたが、そのうちまた貝殻を拾い始めた。岩陰に潜む人魚には気づいていない。
あたしはそれを鳥として見ていた。
4.
人魚はたびたびあたしのところに来てねだった。
「ねえ、やっぱりどうにかあれを持ってくることはできませんか」
海の中では動かなくなると諭しても人魚はわかろうとしない。
これまでにも、陸の生き物に執着して海に引きこんでは「壊れた」と嘆く人魚が時々いた。彼らは制止を聞き入れないし、同じことを繰り返す。嘆きも一時。忘れることがひどくうまい。よく海上に顔を出す彼らは、記憶も感情も風に吹かれて飛んでしまうのかもしれない。
その都度、あたしは何度も人魚に『よくしてやった』ものだ。
「じゃあ、わたしが陸に行く方法ならありますか? どうですか?」
この人魚もまた過去の人魚たちと同じ願いを訴え始めた。彼らと何度も同じようなやり取りを繰り返す、あたしは一体いつを生きているのだろう。
先代から言い聞かされたものだ。人魚は際限がない、執着する。だからうまくあしらって、近づけすぎないこと。できないのなら、ひとつの願いも聞くべきではない、どんなにうつくしい代償を貢がれたとしても。
あたしは先代の言いつけを守れなかった。人魚の持ってくる珍しいもの、かわいらしいもの、どうしてもほしくなる。
もっとも、この人魚にもらった品物には十分過ぎるほどの見返りを渡したと思う。壊れた男の子をなおしてやったのだから。
ぱくぱくと口を開け閉めする人魚。うつくしいはずの巻き毛も、光る肌も、そのかがやきを失い、疎ましさがふくらんできた。ゆうらりと動く尾だけが魅惑的にあたしの目を奪う。
「考えがないわけじゃない。今度は何をくれる?」
「なんでも!」
「じゃあ、あんたの鱗で首飾りを作りたい」
5.
あたしは鳥になって、懇意にしている陸の男の元へ飛んだ。そのひょろりとした肩に乗って囁いてやれば、なんだって男はあたしの言うことをきく。あたし以外に友達がいない。人間の群れから孤立している。へびが狙っているのも知らないで、誰も来ない黒い岩場で一人泣いたりしている男だ。「淋しさを感じない」なんてあたしに言うけれど、そうして名前を捨てさせられた感情は、しつこく存在を主張してまとわりつく。とぐろを巻いているのが見える。
かわいいコトリを模したあたし。こいつの心に届くのはコトリの歌だけ、目に映るのはコトリのあたしだけ。
「コトリちゃん、一緒にお船に乗りましょう」
未明、あたしたちは小さな船で沖へ向かう。
船を操る老夫は、男の数倍も肉厚でがっしりしている。男がひょろひょろした声と明かりで老夫に指図して海に網を放たせ、人魚を船に引き揚げた。
驚いた老夫にオカネを数枚握らせて、男は人魚の鱗を剥いでゆく。明けゆく東の空、人魚がびちびちと跳ねる。老夫に人魚の胴体を押さえつけさせる。この人魚の鱗はまるで浅瀬の海。つないで首飾りを作ったらどんなにきれいだろう。耳飾りにしてもいいかもしれない。鱗を十分に剥ぎ取らせて、人魚を船のイケスに放りこむ。老夫がイケスを覗いて震えながら額に浮いた水を拭っている。人魚のまあるい黒目が瞬きもせずにあたしたちを見あげている。まるであたしに裏切られたみたいな顔をしている。あたしはちゃんと願いを叶えてあげているのに。男が老夫の肩を優しくさすってか細い声で教えてやる。
「人魚の肉を食べると不老不死になるとかならないとか」
6.
人魚は望み通り陸へ行き、もう海へは戻らない。
男の子は人間の群れに帰り、きっと海には近づかない。
7.
嵐の夜に拾ったつるりんとしたおもちゃと、浅瀬色の首飾りが、いま一等のお気に入り。あたしだけの飾り棚で楚々としている。
ありがとうねと歌をさえずってやると、男は「ずっとここにいてよコトリちゃん」とカゴを近づけてくる。もちろんあたしは窓の外へ飛ぶ。羽ばたきの風に消されながら、男の泣き声がかろうじて聞こえる。「じゃあ、ぼくをきみの世界に連れて行って」
男がどんなにあたしの求めを叶えようが陸で寂しかろうが、決してあたしのすてきな寝ぐらの場所は教えない。