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死なないカzOのはなし(しなないかずおのはなし)

 カzOはベッドに横たわり、深く眠っている。

 まつげの先を爪でさわるとまぶたがぴくっと動く。

 とととっと、、、、と、とと、、、手首の脈は奇妙なリズムだ。カリウムが高いと医師が説明していた。心臓が止まりやすいらしい。

 いつも大変ないびきかきだったのに、じつはたぬき寝入りじゃないかと疑うくらい、静かな呼吸だ。

 ついさっき、係のひとに、痰を管で吸いとられ、歯や舌のべたつきを徹底的に掃除された。

 保湿された唇がつやつやしている。脂まみれの肉に食いついたあとみたいだ。でも、その口でものを食べる機能はもう失った。鎖骨のあたりからはいった点滴で生きている。

 ベッドのわきにチェック柄の四角い布がかけられていて、なんだろうとめくったら、尿をためる袋がぶらさがっていた。袋につづく管が、布団に隠れてカzOにつながる。自動的に尿が出てくるはずだが、少ししか溜まっていない。渋茶色で、臭いがきつい。

 全盛期にくらべると、ずいぶん頬のこけたカzO、近々この世から消えると宣告された。

 

……会わせたいひとがいたら連絡してって先生にいわれたけど、無理しなくていいから。

 今朝、母から電話が来て、行くとも行かないとも返さずに会話を終えたまま、いつのまにかコーヒーが冷めた。たまたま休日だった、新幹線に空席があった、それだけのことだった。

 カzOの消滅した世界を想像しようと試みるが、脳ごと綿に変わったみたいになって、思考が遠のく。

 ほんとうにカzOは死ぬのだろうか。

 

 *

 

 カzOの口癖はオダヅナヨだ。

 オダヅナヨ、コノアマと怒鳴って妻を威嚇する。オから始まるその方言を、カzOは腹の底から轟かせる。窓ガラスや柱が、地響きみたいな声に震動する。ぼくは一生使わないと決めている。チョおシコイテンジャネえヨがヤンキーなら、オダヅナヨはチンピラだ。りっぱなヤクザがなんというかはまだ聞いたことがない。

 チンピラ・カzOは、陸上自衛隊経由の調理師で、腕っぷしに自信がある。ともに暮らす妻や老父や子どもには迷惑な自信だった。

 とくに子どもふたりはカzOの猛威におびえる小動物だった。カzOに見つかるとなにかといちゃもんをつけられるので、姿を隠す物かげ探しに余念がなかった。

 ふだんから不機嫌なカzOだが、アルコールを摂取すれば、不機嫌が理不尽に百乗し、箸が転がっただけで怒りだす。カzOのかたわらにはいつも一升瓶とリモコンがあった。仕事から帰ると、テレビのチャンネルを変え、ぐい呑みになみなみ日本酒をそそぎ、かぱっと口に放る。酒が喉に消えた瞬間、カzO・アルコール形態が完成する。小動物たちはそろりそろりと食卓を離れ、自室というちいさな縄張りに避難するが、首ねっこをつままれて回

収され、なんだかんだお説教を受ける。

 ある日、酔っぱらったカzOは出刃包丁をふり回し、敷居にかかとを引っかけて転んだ。

 くるくる、宙を回転した包丁が背中にすとんと落ちた。しかしカzO・アルコール形態は起きあがってダブルバイセップス、包丁を筋肉ではじき落とした。恐怖におののきながらも驚嘆の小動物たち。

 

 *

 

 というのはぼくの想像。

 ところで、小動物たちのあいだで、カzOのからだを切ったら、切断面にはタバコが詰まっているのじゃないかと推測が交わされたことがある。

 目覚めてプカプカ、トイレでプカプカ、洗濯してプカプカ、テレビを見てプカプカ、酒をあおってプカプカ。ずっと白煙を吐いていた。一酸化炭素、ニコチン、タール、カルボニル類、窒素酸化物、アンモニア、揮発性有機化合物、ベンゾ[a]ピレン、たばこ特異的ニトロソアミン類。カzOの息もオナラも汗もぜんぶタバコの臭いだったから、からだがタバコに置き換わってもおかしくないと思ったのだ。

 

……燃やしたら骨も残らなかったりして。

 と、いったのが、ぼくだったのか、小動物二号だったのか、さだかじゃない。

 ぼくは寝ているカzOの頭にライターを近づけてみた。チリチリ、灰色の煙がのぼって、ほどなく消えた。

……空気を送らないと火が強くならないんじゃない? 

 と、いったのは、小動物二号のはずだ。そこで、ぼくが頭に火をつけて、二号がふーッと息を吹きかけた。とたんにカzOが覚醒して、チョスナヨガキドモと怒鳴りちらした。

 怒りがカzOの頭を燃え立たせた。もくもくと臭い煙が六畳間に充満した。カzOの火は障子から天井へ燃えうつり、三十五年ローンの家を包み、隣の班まで広がり、裏の田んぼを焦がし、国道四号を走る車へ飛び火していった。しかし、カzOは焼け野原にも生き残り、プカプカ、タバコをふかし、白い輪を空へ吐いた。プッカ。

 

 *

 

 というのはぼくの空想。

 そういえば、カzOと妻は海で出会ったらしい。長年、不仲極まりない当人たちから話を聞く状態ではなかったが、物置のおくに追いやられた黒いアルバムや、老父の昔語りを総合した物語は次のとおりだ。

 ノBiル海岸に生息する人魚だった妻は、悪い仲間と海水浴に来たカzOを潮に攫おうとした。悪ふざけする人間を海に沈めるのは、人魚たちの娯楽である。しかし、おとなしく沈められるカzOではなかった。逆に人魚を陸地へ引きずりあげた。そのあとなにがどうなったのかまったく不可解すぎて想像できないが、ふたりは恋に落ちたのである。

 ふたりの仲について、人魚の親兄弟が猛反対したので、カzOは人魚を生簀にいれて、軽トラで駆け落ちした。

 陸で人魚が生活するのは大変なことである。カzOは、人魚の住みこみ働き口として、マTsマ水族館にかけあった。この辺に話がおよぶと、ほんとうにふたりが恋に落ちたのか、

 カzOが人魚でひともうけしたくてたぶらかしたのか、真相はわからない。

 しばらく水槽で輪をくぐったりしていた人魚だが、そのうちマTsマ水族館に出入りしていた海の魔女とローン契約し、半身を二本の足に整形してもらってカzOのもとに走った。

 故郷を捨て、からだの半分を作り変えるほどのロマンス。ハッピーエンドだったはずだが、ぼくの思い出のなかで、ふたりはいつでも罵り合っている。

 幼いころ、大人は強くて、どんな怪我をしても平気なのだと思っていた。ましてや、悲しみなんてない。そうじゃない、大人も泣くときは泣く、と知ったのは、元人魚の涙を見た夜だった。幼いぼくに、たどたどしく絵本を読み聞かせる元人魚を、突然現れたカzO がなにやら怒鳴ったのだと思う。

 絵本に涙が落ちた。

 あのとき、ぼくを後ろから抱えるようにしていた元人魚の顔を、振り返って見あげたのかどうか覚えていない。記憶をたぐっているうちに、ページに滲んだ涙が海として広がってゆく。

 いくら喧嘩しても元人魚が陸を捨てなかったのは、二本の足を魚に戻すには縫い目がなじみすぎていたのかもしれないし、海中に住めないぼくら小動物へのなにがしも勘定されていたのかもしれない。

 陸地でカラカラに乾きながら、髪を振り乱し、目を赤く血走らせ、魚屋奥の暗がりで魚を捌きに捌いて働き、カ

zOには罵られる元人魚を、はかなくよわいものだと思っていた。

 しかし、家から離脱してみると、元人魚の言動は、陸の生きものの感覚とはちがうようだとぼくも勘づいてきた。海と陸の〈ふつう〉はぶつかって、くだけて、泡になる。元人魚はわざわざカzOの逆鱗をむしった上でけろっとしていて、ぼくは驚く。カzOが憤怒していた理由のぜんぶこそ知らないが、たぶん、ぼくに流れる血は、海より陸の割合が多いのだろう。この先、ぼくにもカzOが発動して、酒をあおりながら包丁を振り回して暴れ始め

るときがきたならば、穴ぐらに監禁してほしい。

 

 サンマイニオロスゾ、コノアマ。

 カzOはぎらぎらに砥いだ包丁をまな板に叩きつけたものである。

 荒ぶるカzOと元人魚の争いが始まると、ぼくは部屋にこもって布団に避難したが、耳だけは大きくして、いつでも110番できるよう、電話機までの動線や、小動物二号を連れて隣家に助けを求める算段を考えていた。

 今、元人魚はベッド近くにイスを置き、般若心経読本を熱心に読んでいる。恋が残っているのか、愛に変わったのか、情が生まれたのか、ぼくにはわからない。

 

 *

 

 というのはぼくの想像。

(申し訳ないですが、あなたに聞かせられる家族の話はあんまりないんです。話すとしたら、空想で現実をかすっていくしか方法がない。ごめんなさい。心配してくださったんですよね。ぼくのメンタルケアはお気になさらず。お仕事、おつかれさまです)

 

 カzOの好物はピーナッツだ。ピーナッツさえ与えていれば、おとなしく寝そべって水曜日夜八時からの時代劇を見ていられる。

……ステイ、ステイ。オーケイ、ピーナッツ。

 こっそり小声でつぶやく。カzOに意識があったら拳を振りあげて怒るだろうと思う。

 空想上の皿がからにならないよう、とにかく、ピーナッツを補充しなければ。

 なぜかカzOはピリカラアラレとピーナッツのミックス菓子をストックしていた。自分はピーナッツしか食べないのに。

 ぼくら小動物は、ピリカラアラレをより分けて食べる係だった。カリカリ、ポリポリ。

 ピリカラアラレ。ドーゾ、ドーゾ、ピーナッツ。

 まさかカzOは、ぼくらがピリカラアラレを好んでいるとでも思っていたのだろうか。ぼくらは甘いチョコレートが好きだった。

 

 いつだったか、カzOがぼくらを灯籠流しに連れて行った。幽霊が常駐していそうな柳の垂れる、オDaエ川である。小動物二号はきょろきょろ余所見しながら、ぼくの近くをちょろついていた。灯籠にはタマシイがはいっているんだよ、と知らないだれかの声が上のほうから聞こえた。見あげると、そこには月があった。家からの道、振り返るたび、月はついてきていた。あの頃、ぼくは月をつめたい監視員だと思っていた。見ているだけの存在。

 気づくと、カzOが川端にかがんで水面を覗きこんでいた。灯籠にタマシイを吸い取られそうな顔つきだった。ぼくは親指を隠してにぎった。親子連れがカzOの腰にぶつかった。

……あッ、

 と小動物二号が声をあげた。カzOの口からピーナッツが飛び出した。出かける前にたくさん補充したピーナッツ。なのに、つぎつぎ、大当たりしたパチンコみたいに、ピーナッツが吐き出され、オDaエ川へ落ちた。

ぼくと小動物二号は焦った。ピーナッツが足りなくなったら、カzOが制御不能になるかもしれない。それは避けなければならない。ふつうのひとたちが周りにいるのに暴れたら大変だ。しかし、ピーナッツは止まらないし、ぼくらはピーナッツを持っていない。

 ぼくはカzOを川に突き落とした。ピーナッツのなかにカzOは沈み、動きを止めた。しとめたか、と思われた矢先、カzOは猛然と立ちあがり、灯籠を握りつぶして吠えた。獰猛な怪獣である。つぶれた灯籠からだれかのタマシイが抜けて月へ逃げていった。

 

 *

 

 というのはぼくの空想。

 カzOはなかなか死なない。

 カzOが拾った子犬はというと、十一年しっかり生きて死んだ。

 小動物にはパチンコ玉を投擲したり、暗夜の庭に放り出して叱責するカzOだったが、子犬については非常に甘やかした。夜中に子犬がクウクウ鳴けば、わざわざ寝床から這い出てあやしてあげていたらしい。まさかカzOにそんな甘味成分があるとは驚きだった。

 犬をつなぐ鉄の鎖は庭の一角に楔を打たれ、世界は鎖が描く円のなか。朝と夕方、世界円の外へ出られることを、犬はたしかに理解していて、その時刻が近づくときっちり吠えた。夕方に犬を円の外へ連れ出すのは小動物二号の役目だった。首輪をつなぐ鎖をリードに変えた途端、びゅん、犬はロケットみたいに駆け出す。格下の二号に従うつもりはない。圧倒的に犬が強かった。二号にとっては連日脚力強化訓練だった。おかげで、運動競技のほとんどが苦手なのに、足だけは意外と速い子に育った。

 

 そういえば小動物二号は、ボンナイフをにぎりしめて、カzOの寝息を数えた夜があるそうだ。呪いの人形みたいに、枕元へ立ってカzOの顔を見下ろし、ボンナイフを開くかどうか熟考する小動物二号。

……なん回まで数えたの?

……わかんない、知らない。

 小動物二号が何十回だか寝息を数えたところで、カzOに忠誠を誓った犬が庭で吠えた。

 カzOがカッと目を開いたので、小動物二号はサッと逃げた。どちらの命拾いも犬のおかげである。

 犬は今も暗闇に侍っている。午後十一時四十八分、痰がふきだしそうになり、見えない犬が吠えて、ナースコールが鳴る。

 

 *

 

 というのはぼくの現実。

 十二の数字をまたいだだけで、今日が明日と昨日に変化した。眠いし、だるい。しかし妙に背骨に冷たい芯がひとすじ通って頭が冴えている。

 犬が恐れたのは、カzOと老父だった。老父は吠える犬を箒ではたいた。犬は老父が箒を持つだけでひれ伏した。

 老父の背中には花が咲いていた。鳥も飛んでいた。仏はいなかった。自動車や飛行機もなかった。

……おじいちゃん、電車がないねえ。描いていい?

……電車、好きかあ。いいよ。

 たるんで毛穴がぼこぼこした、花と鳥のあいだに、ぼくは線路と電車を描いた。黒と赤の油性マジックだった。おふろのたびに、電車と線路はうすくなったが、いくら石鹸を泡だてて、ナイロン手拭いでこすっても、花と鳥は消えなかった。

 ぼくが幼いころは、カzOが暴れると、老父が取り押さえてくれた。怪獣対ヒーローの取っ組み合いは、隣の家にも聞こえていただろうが、どうしたどうしたと見物に来るひとはいなかった。

 老父がカzOに負けた日、背中から鳥が逃げた。やがて花も枯れた。まもなく、老父のからだはしぼみ始めた。だんだん小さくなって、指でつまめる大きさになったころ、カzOの姉が訪れ、鳥籠に老父をおさめて連れていった。ぼくは、じぶんの机の引き出しに、老父を匿う部屋をつくれなかった。

 

 *

 

 というのはぼくの想像。

 カzOが元人魚や小動物や老父を、彼の世界にどう位置づけていたのか、ぼくには推測すらできない。カzOが繰り出す理不尽を避けるため、同じ空間を共有しないよう努める日々が、家を出るまでつづいた。心が忘れたいだけかもしれないが、記憶をいくらたぐっても、過去に会話した時間をすべてあわせたとして五分と満たない。職場でもっとも関わりのうすい同僚の方が、言葉を交わした時間はずっと長い。

 

 ある見舞客が帰り際、病院の玄関で同情たっぷりにつぶやいていた。

……カzOさんは人生なにか楽しみあったかなあ。若いよねえ。

 ※若いよねえ。の上には、(死ぬには)が入る。

 

 酒ですかね。パチンコですかね。戦争とか組織抗争ものの映画ですかね。それこそ若いころ、写真はやってたみたいですよね。海辺の風景、大きな白黒写真が、額に入って、むかしは飾られていましたっけ。いつのまにか、片づけられていましたが。フィルムのカメラも、どこにいったんだか、苔むしてしまったかもしれませんね。趣味って、お金を食いますもんね。

 

 これはただの事実として。カzOは喫茶店経営に失敗して、マルチ商法で借金して、ぽつぽつと職を変えてもなにかしら労働し、家にお金は入れ、元人魚と小動物を養った。家や車を買う金の足しに、老父を騙したりしながら。じぶんの人生を謳歌するため、ぼくらを捨てる選択肢もなくはなかった。と、独り立ちして、うっすら世間を知った今なら、そうも思う。しかし、それがどうしたとも思う。だから、ぼくはカzOの選択をただの事実として数える。

 携帯電話がふるえた。小動物二号からのメッセージだった。

……明日っていうか今日行く予定だったけど、仕事でむりかも。どんな様子ですか?

……死にそうかどうかってこと? 死ぬなら来るの?

……ごめん、むずかしい。

……死なないでダディって泣いてるって、耳元でささやいておいてあげようか?

……本気でやめて。

 

 *

 

 という、ほのぼのとしたぼくらの関係。

 たぶん、小動物二号が芯からくもりない気持ちでいるなら、昨日のうちに高速バスだろうと鈍行列車だろうと戻ってきただろう。もしかすると、せっかく忘れていた思春期のささくれと、返済しきっていない奨学金と、どこかにあるかもしれない情と、もろもろに押されてもまれて葛藤しているのかもしれない。

 ぼくもそうだ。じぶんがどうしたいのかなんて、この期に及んでわかっていない。ふつうの家族っぽさを演じてみたいがために今夜ここにいるのかもしれないし、まともな大人に求められるふるまいの輪郭をなぞりたいだけという気もする。

 実のところ、小動物二号がしっかり有給休暇取得済みで、二度寝のうえ350ml缶を開け始めたってぼくは責めない。

 もしも、何年か経ってから、最期くらい行っておけばよかったと後悔するときがあれば、その考えはまぼろしだと断言してあげよう。小動物二号が葛藤のなかから苦しまぎれに捻り出した結論こそが最善だったと、それくらいの断言はしてあげよう。

(うちのものが、どれくらい保ちそうかって聞いてきたんですが、どうでしょう。母も受診の予約があるとかで。ぼくも 昼にはこっちを発とうかなと思ってまして。……血圧が七十を切った。そうですか、それってどういう感じですか)

 

 *

 

 というぼくの現実。

 ところで、元人魚はマTsマ水族館の魔女に人生相談へ通った時期がある。魔女へ貢物を

捧げ、帰りには牡蠣の貝殻に紐を通した魔除けを渡されて。元人魚の鏡台の引き出しのお

くには、小動物の臍の緒と牡蠣の貝殻がしまわれている。

……占ってもらったけど、根は悪い人間じゃないっていわれてね。

 と、元人魚はむかし水掻きの張っていた指のあいだをもみながら話していた。

 晩年、カzOは元人魚を連れてシオGマ・マTsマ間の遊覧船に乗り、カモメにパン屑などくれてやったらしい。家を離れたぼくからすると、ふたりがいっしょに遊覧船に乗るなんて、奇妙なパラレルワールドだ。

 カzOの根が悪くないなら、枝にトゲをこしらえず、葉もまるくあってほしかった。殺傷能力の高いギザギザした毒葉を飛ばして元人魚と争う日々、葉っぱが刺さって、ぼくと小動物二号は血だらけ毒まみれだった。

 

 午前二時、静かに寝ていたカzOが、口を開けて、肩をあげて息するようになった。

……まさか元気になってきたわけじゃないですよね。

 と、ぼくが冗談まじりに、内実、ほんとうにそんな予感がして尋ねると、係のひとはわずかにためらい、

……ここの、

 と自身の首まわりから肩らへんを示して、

……ここの筋肉まで使うっていうのは、それだけ呼吸するのに力が必要になっているっていうことでしょうね。

と説明した。次いで、足もとの布団をめくり、足先に触れ、ぼくと元人魚を手招きする。

……冷たくなって、紫色に変わってきました。心臓や脳、だいじなところに血液を送るために、からだががんばる感じになっています。だんだん、だんだんですね。もうおひとりの息子さんはお昼頃いらっしゃるご予定でしたよね?

 なにに対してなのかわからないが、元人魚は神妙に頷き、くぼんだ目でしげしげとカzOの足を観察し、親指の紫を、水掻きの消えた手でにぎった。まるで異星人との交流だ。

 ぼうぼうと太い毛が生えた、ゴム長靴に蒸れて水虫だらけの足だったのに、むくんでこそいるけれど、引き伸ばされた皮膚はかえってつやつやと光って、きれいな白さだ。

……脈がわからなくなってきましたね。手をにぎって、声をかけてあげてください。

 係のひとはいつのまにかカzOの手首で脈をとっていた。ぼくがカzOの手をとれるように、さし向けてくれたが、ぼくの両腕はだらんと脇にさがったまま、肘も肩も動かない。

 係のひとはカzOの手を労わるようにベッドへ戻し、やわらかく布団で包んだ。そんなふうにやさしく扱われる類の人間なのだろうか、カzOは。

小動物にとって避難するほかすべのない、自然災害のようなカzOは、想像のなかでいかにエンドマークを記そうとしても、生き残り、生き返る。いつでも夜道を追いかけて監視してくる月みたいなものだ。明日から月がなくなりますよ、今夜で見納めですよ、とニュースが流れても、ぼくはぽかんとしているんだろうと思う。新月になるだけでしょ? どうせまた姿を現すんでしょ? きっと信じない。

 

 目を開けて起きているカzOと最後に会ったのは、前の入院のときだった。ぼくの役目は、カzOが運転してきた車を家に回収すること。どの患者もカーテンをすきまなく閉ざした静かな大部屋、病衣を着たカzOはベッドに、ぼくはパイプイスに座った。元人魚は洗濯室に出かけていた。ぼくは、布団のしわがつくる谷間をたどって、架空の大地の鳥瞰図を空想し、時間が過ぎるのを待った。ふいにカzOが言った。

……おかあさんのこと頼んだぞ。

 そんなまっとうな台詞がカzOから出てきて、ぼくは驚いたのだったろうか。じぶんの感情を思い出せない。

 

 カzOの銀歯が口内の暗闇で光っている。一升瓶を開けたら、起きるのじゃないか? タバコの火をつけたら、プカプカ、ふかし始めるのじゃないか? ピーナッツを与えたら、噛み砕くのじゃないか? 見えない犬が病室の端でさかんに吠えつづけている。

 小動物二号にメッセージを送る。

……なんかだめっぽいよ。

 小動物二号から返信はこない。点滅する携帯電話に、きっと夜が明けてから気づく。 

 死なないで、ダディ?

 そんなことはいわない。虫唾が走る。でも想像できない。ほんとうに、カzOは死ぬのか?


後記

病院の一室で過ごすある夜のおはなしです。

ベッドに横たわっているのは父親。

同じ部屋には母親が付き添っています。

父との関係性をうまく構築できなかった主人公が、なんども空想のなかで父を死なせようとします。

ですが、父はいくらでも生き返り、死ぬ気配がありません。

主人公は現実でも父が死ぬことを理解しきれません。

父親の実像についても、よくわかっていません。

残りわずかな時間のうちに亡くなってしまうのだと認識していても、まったく実感はできません。

本当に、空にある月と同じで。

世界でもっとも忌む人物なのに、存在が大きすぎるのです。

わからないものをわからないままに抱えて、いえ、抱え切ることもできずに持て余し、それでも人はそれぞれ、生きていくのだと思います。

 

このおはなしは、半分は空想で、半分は事実です。

いつも物語をつくるとき、シチュエーションや筋書きは空想ですが、本当の部分を含んでいます。

それは、感情や思い、希望や願いです。

『死なないカzOのはなし』は、第8回仙台短編文学賞へ応募するために書きました。

最初はまったく別のものをつくるつもりでしたが、〈宮城にゆかりのあるもの・関係のあるもの〉というテーマでは、いつもの創作とは勝手がちがいました。

芯に正直に。宮城という生まれた土地を考えたとき、どうしても出てくるのが、父親の存在でした。どこかで向き合って形にしなければいつまでも自由にはならない感情だったのかもしれません。