ため息がマスクに溜まっていく。
クリーニング屋に面した十字路の、かろうじて残った「とまれ」の「れ」をわざと踏んで削る。
十字路の一方は大通りにつながる坂道。
今夜はなんだか重力に負けて転がってしまいそうだ。
大通りを流れる車のライトによそ見していたら、はがれたアスファルトにつまずいた。
また勝手にため息がもれた。
これから部屋に帰って眠ったら、朝に目覚めなきゃいけないというまっとうなことがひどく疲れる。
腹いせに蹴った小石が予想外に勢いよく飛び、空き缶に当たった。
鐘を打つような音が静かな住宅街にわざとらしく響いた。
なぜか「痛い」と空き缶からうめきが聞こえ、おそるおそる近くと、うしろから肩を叩かれた。
「こちらです」振り向けばエプロン姿の小太りな天使が私を見下ろして浮いていた。
街灯に照らされた羽がやわらかく発光している。
「空き缶のなかでドーナツをつくっていたのに、あなたの蹴った石のために、油がはねてヤケドしてしまいました」
「ごめんなさい」
「お詫びをしたいなら、これを食べてみてください。初めてつくりました」
天使は頭上に浮かぶ輪を外して寄こしてきた。それはドーナツだった。
「天使の輪っかは光じゃないんですね」
「もちろん蛍光灯の者もいますよ。私はただ、いつでもおやつを食べたいのです。ついでに、不憫な人間がいたら、ドーナツをわけ与えて差しあげようと思って」
「ああ、なにかご利益があるんですね」
「なにをおっしゃる。おいしいドーナツは全存在を幸福にするものと決まっています」
偏った思想の天使に背を向けてマスクを下ろし、ドーナツを齧る。
ガリっと固い歯ごたえ。
歯ぐきから血を出しながらバリンバリンと噛んでなんとか喉へ押しやる。
今日の一日に積み重ねた後悔をひとまとめにしたみたいな味だった。
「これは、幸せからほど遠い。大変悲しいです」
「やはり。なにがいけないんでしょう」
しょんぼりした天使に、失敗つづきだった自分の今日を重ねて、わたしも悲しくなった。
部屋へ招いてあたたかいお茶をふるまうことにした。
*
おたがいの失敗ごとのうちあけ話にひとしきり盛りあがった午前三時、天使が本棚からお菓子づくりの冊子を見つけ、ドーナツの項目があることに喜んだ。
勢い、ふたりでつくってみようじゃないかと熱く立ちあがり、天使の所持する材料をあらためた。
薄力粉に似た薄力粉ではないもの。
バターに似たバターではないもの。
ベーキングパウダーに似たベーキングパウダーではないもの。
卵に似た卵ではないもの。
牛乳に似た牛乳ではないもの。
舐めてみてもおかしな味はしない。ちょっとなにかが違うだけ。
ただひとつ、砂糖に似た砂糖ではないものを除いて。
砂糖に似たきらめく粒を舐めると、とろけるくらい甘くて、もっともっと食べたくなって、心臓を打つのを忘れるくらいだった。
口にいれると、頭がふくらんだ。ムムン、ムムンとふくらんで、マスクもはじけ飛んで、おもちゃみたいに首がゆれて目が回った。天使に袋を取りあげられなければ、頭は天井を壊してしまったかもしれない。
天使にお腹をしぼられて、煤みたいに変色したものを吐き出して、ひゅうひゅう頭がしぼんでいく間、むなしさがザラザラとあふれて、床が涙でヒタヒタになるくらい泣いた。
「人間には扱いの難しいもののようです。知らなくて、ごめんなさい」
わたしの背中をさすって、天使はエプロンのポケットへ袋を隠した。
それからわたしたちは、砂糖みたいなものの代わりに砂糖を使ってドーナツを作りはじめた。
「神様はどんなひとですか?」
「会ったことも見たこともありません」
「天使なのに?」
「すべてただそこに在るものですよ。蜂も花も神といえば神でしょう」
泡のはじける油からドーナツをすくって並べる。
「仕上げに」
天使が小瓶を取り出して、目には見えないなにかをふりかけた。
「いただきます」
天使は大切そうに両手でドーナツを持ち、口を大きく開けて齧りついた。
あぐあぐとしっかり咀嚼し、喉を上下させて飲みこむ。
朝陽みたいな笑顔になった。
それはわたしにはあんまりまぶしくて、目をぎゅうと閉じたほど。
「おいしい。最高の幸せです」
「よかった。熱くありませんか」
「大丈夫。ありがとう。今度はひとりでつくってみます」
ドーナツを頭上に浮かべた天使は、窓を開けてベランダから飛ぼうとした。
帰るつもりだ。
あわてて呼びとめ、紙袋にドーナツを詰め、おみやげとして渡した。
「ありがとう。あなたの内に光がありますように」
最後に天使っぽいことを言い、天使は仄明るい住宅街の空を飛んて行った。
*
袋にはいりきらなかったドーナツが、お皿にある。
食べてしまうのがもったいなくて、匂いをいっぱいに吸いこむ。
いつか見た夕方の、焦げた空のなつかしい甘さを思い出した。
少しだけ眠ったら、ドーナツを朝ごはんにしよう、コーヒーといっしょに。
そう決めたら、どんなに眠くても目覚められる気がした。